想像と想起、どちらも同じような意味の言葉ですけど、ニュアンスが微妙に違うと思うので、そのニュアンスの差を利用しながら思うところを書くことにします。
まず意味合いとしては、想像というのは「独自にゼロのところから思い浮かべるもの」、想起というのは「元々含みを待たせているところから感じ取るもの」、と言ったところでしょうか。言い換えると、送り手が「えっ?あの内容からそんなことまで考えたの?」と思うようなことを受け手が考えるのが想像、送り手が「この内容から、こういうところまで感じ取って欲しい」と思うようなことを受け手が考えるのが想起、ということになります。この微妙な違いがお互いの意見を交わす時の認識の違いを作り出している原因ではないのかなと思います。
どういうことかと言うと、Aという内容からBという内容を思い浮かべた時、そのことがAの中にはBが含まれていると思う人にとっては想起、Aの中には含まれていないと思う人にとっては想像、ということになります。思い浮かべた内容が一方にとっては当たり前のことであっても、もう一方にしてみると想像で感じているだけ、ということになってしまうわけですね。こうなると「勝手に想像しているだけだろう」「含まれている内容を感じ取れずにいるだけだろう」と水掛け論になってしまい収拾がつかなくなってしまいます。さらに問題をややこしくするのが、ある内容を思い浮かべさせるために必要とする内容量の差。5の内容で察する人もいれば、10の内容で察する人もいて、まさしくこの辺りは人それぞれ。送り手が5の内容を送り出したつもりでも、受け手がそれを5ととらえるか、1ととらえるかという要素もあったりするので、非常に複雑です。つまり、
①送り出される内容にどれだけの内容量を見出すか
②とあることを思い浮かべるためにどれだけの内容量を必要とするか
人によって千差万別なこの①と②が感じ方の違いを生み、その違いを相手に伝えるのは感性の違いも相まって、相当難しいのでは、ということです。
かつてポポまり掲示板で肯定論と否定論がぶつかった時にこう言われたことがあります。「ぱぐさんはポポまりを想像で補っているのではないか、想像と内容の区別をしていないのではないか」と。自分としては内容から当然のように「想起」される部分については内容の一部だと思ってます。その上での感想だったわけですが、今ここで述べた理由からも、いくら言葉を連ねて説明したところで、こちらの意図するところは伝わりません。「どこを見てそう感じたのか説明して欲しい」とも言われたんですけど、結局「5の内容が描かれているAという部分から10の内容を感じて、その中に含まれているBという内容を感じました」と説明したところで、「それは想像に過ぎません」と言われればそれで話は終わってしまうわけで、当時はその辺りが非常にもどかしかったりもしたんですけど、まぁそれも無理からぬ話かと思います。
ただ送り手側に願いたいのは、伝えたいことがうまく伝わらないのではないかというリスクを恐れて、「確実に10の内容を伝えるために、20の内容量を盛り込む」というような過剰供給はして欲しくない、ということです。場合によっては一部には伝わらないかも、というリスクを承知で想起する楽しさや喜びを残して欲しいなぁと願っています。