作品の舞台となる「世界」については、物語によって世界が描かれるという一面もあれば、最初に世界ありきでその中で物語が描かれるという一面もあります。「物語」と「世界」は非常に密接な、切っては切れない関係にあるわけですが、どちらの見方に重きをおいて作品に触れるべきなのでしょうか?もちろん両方とも大切な見方なのでどちらか一方の見方さえしていればいいというわけではなく、一方が他方に劣るというわけでは決してありません。ただ前者の見方を重視するか、後者の見方を重視するかによって、おそらく作品に対する印象がまるで違ってくることになると思うので、大切なことなんですよね。
「作品の舞台となる世界は物語によって描かれるわけだから、世界観はきちんと物語で示されるべき」
「最初に作品の舞台となる世界があるわけだから、その世界を受け入れた上で物語を見るべき」
この違いが作品の感じ方にどのような影響を与えるかについて考えるきっかけになったのが、封印されている時の精霊さんの話し方についての色々な意見。「うにゅーん」とか「はにゃーん」とか「~なの」という話し方について、何の違和感を感じることなくそのまま受け入れたという意見もあれば、ポポロの世界にはそぐわない等の否定的な意見もあります。同じ1つの場面をとらえてもどうしてこのように意見が分かれるのだろうと考えた時に今回の内容について思い当たりました。そぐわないと考える背景には、おそらく「あの話し方(物語の描写)は今までに描かれてきたポポロの世界観とは異なる」との思いがあってのことなのでしょう。一方私自身としては、単純に「ポポロの世界があって、ファントネシアに精霊さんがいて、そういう話し方をしているだけ」と感じました。だからそんなに否定的に考える必要はないんじゃないのかな、と。
思うにまずは「最初に世界ありきの視点」で作品に接した方がいいんじゃないかなという気がします。物語による描かれ方に納得がいかないからそれを受け入れられないということになってしまうとどうしても何かと制限が出てしまうんですよね。受け入れなければ理解できないという場合もしばしありますし。例えば「ポポロの世界は地球のように丸いのではなく実は平らです」って話が出た場合に、「そんなの今まで話に出ていない」と抵抗を感じてしまうか、「あ、そうだったの?」とすんなり受け入れてしまえるか、この感じ方の差は非常に大きいです。考えすぎずにありのままを受け止めるというのも大切なことだと思います。
もっとも私の場合、物事をスムーズに理解して受け入れられるから最初に世界ありきの見方をしているわけではなく、ポポロはもちろんのこと、映画にしても小説にしても漫画にしても、「広い宇宙のどこかにその作品の舞台となる世界が実在する」と単純に思っているので、自然にそういう見方になっています。ここからパラレルを嫌ったりマルチエンディングのゲームを苦手とする理由も出てくることになるのですが、それはまた別の項にて。