漫画にしてもアニメにしてもゲームにしても、人がバタバタと死んでいくという描写は苦手です。映画とかであれば「演じているのは俳優さんだから、実際に死んでいるわけじゃないから」と考えられなくもないですけど、誰かが演じているのではないアニメやゲームの世界だとそうもいかないんですよね。その人となりはその世界でしか存在しえない唯一無二のものでありますから。
創作の物語や世界に触れるに際し、自分の軸足を現実世界に置いて第三者的な視点で見るならば、割り切って冷静に考えれば、“実存するわけではない架空の世界の命”なわけですから、それが失われたことに落ち込んだり気に病んだりする必要はないんですけど、思い入れを強くしてのめり込んだ結果、軸足を向こうの世界に置いてしまうと、そう簡単には済ませなくなってしまうんですよね。主人公絡みの人物はもちろんのこと、あまり関係のないモブ的な存在であったとしても。人が死ぬ描写を見ると、残された人はこの突然の死をどう受け止めるんだろうな、これからどんな思いで生きていかなければならないんだろうな、とかついついそんなことを考えてしまうクセがあります。ひとえにこれは、不幸な人が生まれない平穏で居心地の良い世界・物語を好むという自分の趣味嗜好に起因する捉え方であるのは自覚してます。
画面の中や紙上の死をそんなに重々しく受け止めなくても架空の出来事として流せばいいんじゃない?と考えなくもないですけど、好きな作品であればあるほど、そういう思いはどうしても避けられなくなってしまいます。願わくば誰一人欠けることなく幸せでありますよう、そんな結末を求めずにはいられなくなります。犠牲があるからこそ深く心に刻まれることも確かにあるんでしょうけど、死にゆく悲しさではなく、共に生きてゆく喜びで満たされますよう、いつの頃からかそんな思いで漫画、アニメやゲームに接するようになっています。年齢のせいなのか、はたまたそうした作品に居心地の良さを見出しているからかもしれませんが、こういう考え方をしていると、必然的に手にする作品が限られたものになるのは言うまでもありません。
この探偵局の観点で言えば、「月の掟の冒険」や今回の「ナルシアの涙と妖精の笛」のように例外はあるものの、ポポロクロイス物語のシリーズがまさに幸せの塊のような作品なんですよね。ポポロ2がその最たるもので、ナルシアが助かる、サニアも助かる、挙句の果てには鬼面童子が無事に再会まで果たすという大団円は、本当に心の底から嬉しく感じたものでした。個人的にはそうした喜びに溢れた作品の方がずっと心に深く残ります。また何度でも振り返ってみたいと思います。と言っても、月の掟の冒険やナル笛でも悲しい結末に納得しているわけではなく、どこかに必ず救いの道があるはずと探求していますけど。
ポポロ以外にも例えば日本ファルコムの「東亰ザナドゥ」なんかもとびっきりのハッピーエンドの塊で、お話の中で登場人物の1人が「さすがにご都合主義すぎるでしょ」と言うほどのご都合主義っぷりなのは間違いないです。それを言っている当人も泣いているという本当に優しい作品なのがたまらないです、本当に。
架空の世界であっても命が軽々しく扱われることがありませんように、とそんな思いを持ちながら日々ゲーム等に触れているのでありました。
常々思っていることを今回こうして書きたくなったのは、ナル笛が間もなく11月30日に終わりを迎えることや、先日ようやくエンディングを迎えた「黎の軌跡」の影響かもしれません。その辺りはまた別の記事にて。